2021年にはじめて視察で亘理町を訪れた。夕方ごろ徐々に暗くなる荒浜の海岸に腰を下ろし、阿武隈山脈から広大な平野を通って流れてくる雲々が、眼前に広がる海と交わる水平線を見ていた。生憎の天気で灰色の雲はその重みに耐えられず、今にも雨を落としそうだった。ふいに、この雲を形作る水もかつては海だったのかもしれないな、また海に還っていくのだろうなと感じられた。亘理町と同じく山と海を持ち、震災を経験した神戸。私自身の出身地でもある神戸をこのプロジェクトの比較リサーチ対象として選んだ。相対的に見ることで俯瞰した視座が見えてくるという考えからだ。海から山までがとても近く、急勾配な坂道で形成された六甲山麓から眺めた神戸の海は、雲と大気と海の境い目が溶け合い、1つのまとまった"なにか"に感じられた。山があって、雲があって、海があって、その間に町があり、動植物が暮らしている。亘理と神戸は違っているように見えて大きくは違わない。視覚だけでなく、その場に身体を置いたときの体感だった。全て等しく水を含んでいて境界があるように見えて緩やかに繋がっている。蛇口を捻って出てきた水を飲む。その水は自分の血液となって全身を巡り、やがて尿として体外に排出される。その尿は下水管を通って川や海へと流れ込み、水面で温められて雲となす。その雲はどこかの見知らぬ山に迎えられて雨となり、どこかの川を流れ、また誰かの身体に入っていく。私でなかったものが私になり、私だったものが自然になり、誰かの中に私だったものがいる。
亘理町でのくらしを記録した KEIKA BOOK(2024)を制作しているときのこと。それまでの制作活動の中で透明樹脂を特段扱ってこなかった私は、作品制作に苦戦をしていた。1年近く書き溜めた絵日記を、1つの物体へと結晶化するために選んだ素材だったが、同じ樹脂を何度かに分けて流し混むと、その回数分の層ができてしまい1つの塊に見えない。樹脂がきちんと混ざりきっていないのか、硬化を待つうちに成分が沈澱してしまうのか、明確な理由はあるのだろうが、完全な一体化が叶わず当初の計画は変更を余儀なくされた。しかし、目の前に予期せず現れた絶妙なあわいに、「不思議だなぁ。美しい線だなぁ。」と純粋に感動した。その現象に、なにかしら“真”を目撃したような確信があった。
亘理町と神戸市をより深く知るため、国土地理院が公開している地形図を3Dプリントし、自分が見てきた風景と地形の起伏を重ね合わせて眺めていた。地図を立体化すると身体感覚に馴染んでいた亘理町の平坦さはより強度を増して感じられた。その印象が強くなるほどに沿岸部に連なる高さ約14mの防潮堤は自然と人の世界との間にとても明確な境界線を引いているように感じられた。その人工的な線を肌で確かめるために、実際に防潮堤の上に立ってみることにした。すると意外なことに自分の身体を超える圧倒的なスケール感によってか、境界線を引いたというよりは異なる関係性に書き換えられ、新しい地形が生み出されてしまったという印象だった。亘理町と岩沼市の境界線は阿武隈川で区切られているが、度重なる氾濫で川の形が変化していることを思えば、人工の区分は曖昧だ。同様に、瀬戸内海に位置する神戸の海には2つの大きな人工島がある。そのうちの1つのポートアイランドは、当時珍しかった電線を地中化する取り組みがなされた人工地盤で、世界一大きな人工島だ。地図上でも元々の陸地と同じように表記されており、実際に足を運んでみても、その場所がかつて海だったということは感覚的に理解しづらい。自然物なのか人工物なのか、案外スケールが大きくなると肌感覚ではその境い目がわからなくなる。
私たちは自覚的か無自覚的かは別として、あらゆる境界線を感じて暮らしている。生物学者のユクスキュルが提唱した「環世界(Umwelt)」によれば、すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動している。つまり人間であれば五感で感じられた情報を基に世界を認識しているが、視力を持たないダニやほとんど嗅覚の退化してしまった鯨たちは全く異なる世界の捉え方をしている。どの種が優れているというわけでもなくそれぞれの仕方で世界を認識している。そんな中でも人間の特徴はユクスキュルも指摘した通り、想像力によって自身の認知の枠を超えていけることだ。ニュートリノが体を貫通していることは広く知られているし、コウモリは音を壁のように知覚しているのだろうと想像を膨らませる。紫外線を視ることができる虫はどんな世界を生きているのか写真を使って擬似体験を試みる。このように実際に体験することはできないけれど、想像力によって自身が知覚している世界のリアリティを自己破壊し、別の世界の捉え方にチャレンジできる。この世界にある全ての物質は原子で構成されている。さらにその原子は陽子・電子・中性子という素粒子で構成されている。これらは素粒子の間は一定の距離を保ちながら電気的に結合している。平たくいうと集まっているだけで、完全にくっついているわけではないらしい。目の前に転がっている石も私の身体も大きく広がる空間の中で、ある場所に集まった「エネルギーの密集地帯」として表現できる。そこには明確な境界線が引かれておらず密度の差であり、私たちのリアリティはそれを別物と認識しているにすぎない。
管理のために引かれた都道府県の境界や、持ち物を示すための国境のような人が想像力を発揮して作った概念的な線。私と生物あるいは無生物の間に感じる物理的な境界線。全ての線をほどくと、不思議な一体感を通じて清々しい気持ちに満たされる。1500年以上も前に仏教哲学「唯識の思想」で語られたことを、いま科学の世界では量子論が解き明かそうとしている。どこに住んでいても世界に接続されているし、自身の意識を書き換えることで新しい美しさに触れられる。
2025年1月 魚住英司
境界線というフィクション